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2012年9月27日木曜日

Maruya Gardens Academy 第1回記念講演

赤松良子先生講演会

「均等法誕生秘話と202030」

 

  • Maruya Gardens Academy  始動!


  • Maruya Gardens Academyは、主催者 株式会社丸屋本社 玉川 惠社長(マルヤガーデンズ運営)の挨拶でスタートしました。
    • 18時30分開始前には、たくさんの参加者が集い、ほぼ満席。参加費は1,500円ですが、ワンドリンク付き。(安いですよね!それも講師は、びっくりするぐらい高名な方!)皆さん片手に思い思いの飲み物を持って、始まりを今か今かと待っている。新しい試みがこれから始まる時の好奇心と期待感、ドキドキワクワク感が会場を漂っていました。 


マルヤガーデンズ 株式会社丸屋本社 玉川 惠 社長
 


(下記は、玉川惠社長の挨拶抜粋)

    • マルヤガーデンズはユナイトメントといコンセプトのもと、お買い物の場としてだけではなく、地域の色々なコミュニティが集まる場を提供しています。また、そこで新たなコミュニティやネットワークが生まれることを目指しております。
    • 主催します、Maruya Gardens Academyは、県内外でさまざまな分野で活躍されている方々を講師にお招きし、交流の場となることが願いです。マルヤガーデンズを会場に年齢・性別・職業の枠を超えて定期的に勉強会や交流会を開催し、地域で頑張る人たちのネットワークを広げていく活動としております。今後2カ月に1回を目安に開催する予定です。
    • Maruya Gardens Academyは、かねてより個人的に大変ご縁のある東京で医師としてご活躍の堂園りょうこ先生の『マルヤガーデンズを通して、鹿児島で元気に活躍されている方々が集い、学び、新たな交流の場をつくったらどうか』というご発案が、マルヤガーデンズのコンセプトと合い、創設する運びとなりました。
    • 本日の講師 赤松良子先生をお招きするにあたって、堂園りょうこ先生ならびに本日、赤松様にご同行されて東京から来鹿された山口様に深く感謝申し上げます。

  • 続いて、今回講師の赤松良子先生が会長を務める財団法人日本ユニセフ協会の鹿児島支部にあたる鹿児島県ユニセフ協会が、今月(9月)15日発足。鹿児島県ユニセフ協会会長 島津義秀さんよりご挨拶がありました。


鹿児島県ユニセフ協会 島津 義秀 会長
 

(下記は、島津義秀会長の挨拶抜粋)

    • ユニセフは、一般的に発展途上国を中心に、教育・医療を支援しています。
    • 皆さん、日本はユニセフから3回支援を頂いています。まず1つ目は、大東亜戦争(太平洋戦争)終戦後の脱脂粉乳、伊勢湾台風(昭和34)時の支援、そして3.11東日本大震災時の支援と3度の支援を頂いています。
    • 世界の子どもの人口は、約22億。 貧困といわれている国に住んでいる子どもの人口は約半数の10億人とされ、またその中で5歳までに亡くなる方が年間約1,050万人と言われています。
    • ユニセフは子供としての生きる時間を取り戻してほしいという目的で活動しています。
    • この度、鹿児島にユニセフのサロンが、鹿児島市新屋敷町の公社ビル1F にて開設されました。ユニセフの活動を知ってもらい、協力してもらえたら大変嬉しいですが、まずは気軽に遊びに来ていらしてください。

  • いよいよ、講師である赤松良子先生の登場!
第1回Maruya Gardens Academyは、 第1回記念講演にふさわしい、そしてテレビの中でしかなかなかお目にかかれないほど高名な女性、赤松良子先生を講師としてお招きし開催されました。

大きな拍手で迎えられた赤松さんは壇上に上がり、『Thank you』 ささやくようにと答えられました。
いつも国際舞台で日常的に使われいていらっしゃるのでしょう。たった一言のさりげない、しかし洗練された返しが、ずっと耳に残るようでした。

ライトトーンの綺麗な黄緑のチェックのライン入りのスーツに、ベージュのパンプス。
歳を重ねたであろうしわがわからないほど肌がつやつやし、頬は薄い桜色に、
薄い珊瑚色の口紅。髪も3色の色合いのメッシュ。
「今、83歳」といわれないと歳がわからないほど、凛としたたたずまいにはっきりとした話し方。

今も、現役の働く女性であられる姿、83歳を感じさせないはつらつとした雰囲気に、歳を重ねた女性の重厚なる魅力を与えていました。

 

第1回記念講演 師 赤松 良子 先生
 
  • 均等法(男女雇用機会均等法)誕生秘話

 先程紹介いただいた【均等法の生みの親】と紹介してくださることは大変嬉しく思っています。自分でもかねがねそう思っていますが、やはり色々な方にそういわれることは嬉しいことです。しかし、法律をつくるのは、本当に大変でした。並大抵のことではありませんでした。

 均等法を作ったことは、いつ人生が終わるかわからないが、その人生が終わるときに自分の人生はどうだっただろうと考えたときに自分は幸せ、喜びがあったといえるでしょう。
私の人生にとって均等法をつくることに貢献した。法律をつくることに貢献した。2度の法律の制定に貢献した。ことは、 私の人生の幸せであり、喜びと言えます。

 私は、2度の法律をつくる場面がありました。1つは、勤労婦人福祉法(閣法)もう1つは、男女雇用機会均等法
になります。勤労婦人福祉法は、法律で言えば小さく、男女雇用機会均等法は大きな法律といえるでしょう。しかし法律は、大小かかわらず法律ができる過程はみな同じであり、大変なことでした。
 法律は2つ作りかたがあります。議員立法で国会でつくる法律と政府府の各省庁がつくる閣法(内閣法、自分たちの省庁が責任をもってつくる法律)の2通り。法律をつくる時は最終的に法制局と作っていくが、法制局と言うところは、米粒ひとつでも足りなかったら、足りない!といって突っ返すようなところで(ここで、赤松先生が米粒つかわないけどね。と茶目っ気な姿を)、とにかく厳しいものでした。

 本来は男女雇用機会均等法ではなく、雇用平等法を掲げていたが、内容的に非常に難しいものを掲げていました。
過去に勤労婦人福祉法をつくったことが大変役に立ったが、雇用平等法は内容的に大変反対が多く、法律をつくることに大変苦労が多かった、妥協を重ねて、いまの法律の形になりました。


歴史上女性の地位が大きく変わったのは、戦後(1945年)、憲法が変わりその中で民法の大改正が行われたとき、そして男女雇用機会均等法が制定されたときの2回だと思います。

戦前は、結婚したら妻は夫の家に入る(いる)という言葉を使っていました、家にいるという言葉は、入るとかき、それをいると読ませ、その文字のとおり夫の家に入らないといけませんでした。

それは、労働契約などをはじめとする個人と個人の契約をすることは、すべて夫の許可が必要でした。契約は仕事、お金の貸し借りだけでなく、相続権の権利も与えられていませんでした。この相続権に関しては、女性の妻や女の子どもだけではなく、次男、三男など長男以外の男子にも与えられていませんおらず、相続権の権利は、長男のみ。戦前の民法にはこのような権利はありませんでした。

戦後の新しい憲法、民法大改正により、妻の貢献度に対しての妻の相続権(1/2)、子どももそれぞれの相続権も与えられましたし、放棄権も与えられました。 娘にも等分の権利が与えられたことは、大変な進展でした。


2回目の大きな変化は、前にも述べた男女機会均等法が制定されたことのよるものにあたると言えます。法律が作られる前まで、労働の場(雇用の場)は、女性への差別が横行していました。なぜなら雇用の場では、民法が適用されないのです。ですから労働(雇用)の場には、差別が蔓延していました

この男女雇用機会均等法は、雇用、つまり、雇われて働く立場のある人に適用される法律のため、家で主婦をしている人には関係ない法律になります。ですからいろいろな主婦の方々から文句がありましたが、私は労働省におり、法律は労働省で作るので、労働法しかつくれないのですよね。主婦の方には民法が適用され、平等が守られますが、雇用の場の女性は守られていなかったのです。

例えば、結婚したら退職すると書いてあれば、女性が結婚、新婚旅行後に会社に出勤すると、椅子や机がなくなっているということがありました。女性は結婚したら、仕事を辞めるということが当たり前の状態でした。有名なものに住友セメント事件(東京地裁判例 1966年12月20日)であり、その判例は民法90条の「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす」というものを適用したものであり、その後の女性の性差別に対する裁判の判決に大きく影響しました。しかし、このような差別無効の判決は、裁判を起こさないと効力がありません。裁判には時間も費用も膨大であるため、多くの女性が泣き寝入るすることが多かったのです。

そこで、法律をつくることになりました。法律は、裁判行かなくても、すべての働く人に適用され、効力があるのです。
法律があれば裁判に行く必要がありません。

法律をつくることは本当に苦労しました。男女雇用機会均等法の表現は、【~努めなければならない(努力義務)】の表現になっています。本当は、【~差別してはならない】と強く法律に書きたかったのです。しかし使用者側を怒らせて法律自体がぶっ飛んでしまうよりは、【~努めなければならない】という努力義務のソフトな表現を使い、法律をつくることが大切であると考え、今の形になりました。 これが均等法男女雇用機会均等法の誕生秘話であり、苦労話です。

  • 202030とは?


2030とは、9年ほど前に閣議決定された「2020年までに日本のいろいろな場所のリーダー(例えば中間管理職など)に3割は、女性にすること」という目標値のことです。

202030は目標値ですので、いままでつくった法律に比べたら効力はありません。しかし、2020年に少なくても3割は女性にするということを閣議で決めたということが重要なのです。これは、今も生きている目標値です。決して強いものではありませんが、202030と決めたことは、何より大きなことでなのです。

30%女性に割り当てるということは、無理だ!と言う声はたくさんあります。しかしながら、30%割り当てるというのは目標でなのです。

  • ここでクォータ制ということを覚えておいてください。

クォータというのは割り当てと言う意味です。WIN WIN ウィンウィンでもこのことを、常々発信しています。

「クォータ」と「クォーター」は違います。クォーターは、英語で25%という意味になります。あれ30%とと違うのではないの?となってしまう。クォータ制は、クォーターと違い、後ろの長音(-)をつけません。クォータは、割り当て制度と言う意味なので、20でも、30でも、40、50・・・でも構わないのです。

 割り当てで50となると半々ですので、パリッテという言い方になります。パリッテというのは、フランス語で半々という意味。フランスは、憲法にパリッテと書きました。ジェンダーの国といわれているフランスは、大切な場所での物事は、男女は半々にするとし、そのことを憲法に書きました。【パリッテであること】とされています。フランスでは当初、【クォータとすること】と憲法にかく予定でした。しかし法律違反だ!という声があり、憲法にパリッテとかいた。フランスの女性はすごいですね。

クォータ制というのは、100のポストがあったら、割り当てると言う意味であり、何割(何%)かは、いい表していません。

202030というのは割り当てが30(3割を女性)としているので、これはクォータとされています。

 2020年まであと約8年。いたずらに時が過ぎていますが、まだあまり進んではいませんWIN WIN ウィンウィンはたくさんの方々に協力をいただいて、政府の尻をたたいているような状況です。その働きかけが、1人の大臣を動かし、法律にポジティブアクションという法律男女雇用機会均等法14条)をつくることとなった。ポジティブ・アクションとは男女労働者の間に事実上生じている格差の解消を目指して企業が行う自主的なかつ積極的な取り組みのことをいいます。

ポジティブ・アクションは広い概念。割り当てまで決めてあるクォータ制は狭い概念といえます

 首尾一貫として、結果の平等を求めています。しかし1983年雇用機会均等法制定時は、時代の風潮として機会の平等とすることが精一杯でした。しかし、クォータ制まできました。機会の均等法は、ファーストステップ、クォータ制はセカンドステップ、現在、サードステップの段階です。ですので機会均等法と202030はまったく関係ないことだとは思っていません。

  女性は、束になって、一緒になって、連携すれば、要求が通る大きな力となります。この場には、女性団体の方々もいらしゃると思います。一緒になって連携しながら頑張ってください。

 最後に参加者(宮之原さん)からの質問にこう答えてらっしゃいました。とても素敵な人生の指南です。

「先生が新しいことや困難なことをされるときに、信念を持っていたこと、曲げずに貫き通したこと、大切にされていることがありましたら教えてください」

「自分がしていることが非常にいいことだと思えることをすることが大事です。また世の中のために良いことをしていると言うことが大事です。少しでも、そのことに不安や迷い、誤り、不透明があれば、物事がスイスイ動いているときはいいが、困難なことにぶつかったとき、中(内)からエネルギーが出てこないのではないでしょうか?
そしてもうひとつ大事なことは、これを(よいことや世の中によいことをする)するのは、自分だと思うことです。



最後に、今の男女雇用均等法からの抜粋。

これが赤松先生が、大切にされている思いをもとに制定され、現在、私たち雇用の平等を守ってくれている法律の一部になります。(若干その後追加改正あり) 

  • 男女雇用機会均等法 (雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律)

    • 目的条文(法1条)
この法律は、法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのっとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を図るとともに、女性労働者の就業に関して妊娠中及び出産後の健康の確保を図る等の措置を推進することを目的とする。
    • 基本理念(法2条)
一. この法律においては、労働者が性別により差別されることなく、また女性労働者にあっては、母性を尊重されつつ
充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とする。
二. 事業主ならびに国及び地方公共団体は、一.二規定する基本的理念に従って、労働者の職業生活の充実が図られるように努めなければならない。 


【プロフィール】
  赤松 良子(あかまつ りょうこ)
    1929年8月24日大阪生まれ。 東京大学法学部卒業。
    1968年婦人労働課長時代に勤労婦人福祉法に育児休業制度を盛り込む。
    1985年労働省婦人少年局長時代、男女雇用機会均等法を成立させる。
     ★『男女雇用機会均等法の生みの親』とも『均等法の生みの母』ともいわれている。
    1993年・1994年 文部大臣。
    元ウルグアイ特命全権大使。
    国家公務員のパイオニアとして、女性の地位や労働条件の向上を積極的に進め、尽力。
    その姿勢は、一貫としている。 
    また現在、政治の分野への進出を目指す女性を支援するネットワーク「WIN WIN」代表。
    公益財団法人日本ユニセフ協会会長。筆名は青杉 優子。
 
    2003年11月3日、扇千景とともに女性として初の旭日大綬章を受章。
    国際女性の地位協会10周年を記念して、「赤松良子賞」が設けられた。


   著書
    『詳説男女雇用機会均等法及び改正労働基準法』(日本労働協会、1985年)
    『うるわしのウルグアイ 女性大使の熱い三年』(平凡社、1990年)
    『均等法をつくる』(勁草書房、2003年)
   編著・共著
    『解説女子労働判例 』(学陽書房、1976年)
    『わかりやすい男女雇用機会均等法』(花見忠共編)(有斐閣、1986年)
    『志は高く』(有斐閣、1990年)
   
   参考
    『こんな生き方がしたい 公務員 赤松良子』  著 杉山 由美子(理論社 2003年)
        
   
★時折、生まれ育った大阪弁が混ざる赤松さんの講演会は、とても楽しく、興味深く。そして何より法律をつくる方々の思いや背景を知ることができ、その方々のおかげで、仕事を自由にできるんだな~と仕事が好きな真紀子は、感謝を感じずにはいられない感慨深い夜でした。今後このような講演会は、2カ月に1回を予定しているそうなので、興味がある方は、マルヤガーデンズのイベント案内のリーフレットやホームページ、そしてこのレポーターのブログをちょくちょくチェックをしてみてください。問い合わせ先099-813-8108(マルヤガーデンズ) 。  
written by 真紀子

開始15分前、人は続々集まって来ています。
写真のフレーム外では、ドリンクに並んだり、名刺交換したり

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